【ブログ】パクリが敗北だったかつての自分とそれを許した今の自分[私の半生]

【ブログ】パクリが敗北だったかつての自分とそれを許した今の自分[私の半生]

正に月だね、ミスターお正月です。

普通のブログを書きます。
難しい言葉遣いを沢山していると思いますが、私の素直な言葉です。

勉強嫌いだったかつての自分

私は昔、勉強することが嫌いでした。なぜなら、それは「パクリ」だからです。
先人の技術や知識をパクッて自らのものとして吸収すること、それが「勉強」です。
だから勉強が大嫌いでした。

なぜパクリが嫌いかというと、「自らの創造性、斬新なアイディアに圧倒的な自信と自負心があったから」です。

 

私は非常に優れたアイディアマンであり、問題解決の達人でありました。
物心ついた時には既にそうでした。

他人には導出し得ない問題解決の糸口を瞬く間に発見し、未解決の問題を解決させる、
何かそのようなアイディア導出の類稀な才能があったことを自覚していました。
それゆえ、「すでに解決手段の発見された先人の英知を学ぶ」という「勉強」の行為は、
私の自尊心と敵対していたのです。

 

「私が解決手段を導出すれば、勉強などしなくても済むだろう」と。
私のプライドが「パクリ」や「勉強」を敵視していました。

 

もっとわかりやすく言えば、パクリは私にとって、「負け」だったのです。
パクリは私にとって負け、言い換えれば、パクリの一つである「勉強」も、私にとっては「負け」だったのです。
その圧倒的な自我と自尊心ゆえに、勉強をしなかったのです。

 

 

しかし、そのような自分自身の感情を上手に言語化し、表現できるようになったのは、30代に入ってからだったように思います。
それまでは、教育や社会のあり方と、自らの立ち居振る舞いとがかみ合っていないことに、ただ漫然と不服な感情を抱いていたように思います。

学校教育や就職と自らの才能のあり方

とりわけ日本の「就職」や「学校教育」において、求められているのは、「問題解決手段を発見する知性」や「斬新なアイディア」などではなく、「勉強」なのです。

勉強の出来不出来を評価する指標は明らかであり、日本人は幼少期からその指標に基づいて品定めをされて生きていきます。

それに比べて、問題解決能力や、アイディアを導出する能力というものに共通のものさしはありません。
そして、その指標に基づいて社会は動いていません。

 

そのようにして「勉強」という名の「先人からのコピー&ペースト能力」を優遇して社会が発展してきた結果、
今の日本が閉塞的で先の見通しの利かない社会になったことは、私の語る間でもありません。

と同時に、今後の社会の発展に、今、私のような「問題解決能力の高い人間」に注目が集まっていることも、私が語る間でもないことでしょう。

 

ただ、勉強するスキルを優遇する社会の中枢を目指しても、私の才覚が真に生かされることはないと幼少の頃から漠然と気づいていました。そのため、私は「美術」の道を志しました。

美術という分野は社会の中枢ではなくアウトサイドであり、
社会のアウトサイドである故に「勉強」や「パクリ」を中枢とした支配・優遇体制は
築かれていないだろうと期待したためです。

日本社会である限りどの世界でも結局やることは同じ

しかし、日本社会のアウトサイドだと思って志したものの、
美術の道の中で行われていることも結局のところ、主として「コピー&ペースト」です。

それは「オリンピックのロゴ問題×佐野教授」の一件で、
全ての日本人の目にわかる形で白日の下にさらされました。

 

「この道を登り詰めようとも、結局行き着くべきところは同じ。」

 

オリンピックロゴの一件は、私のその後の人生に大きく影響を与えました。

先見の明。未来を見据える力。

この話はあまりに胡散臭いので、他所様に話したことは未だかつて一度もないのですが、
オリンピックのロゴ問題により、改めてロゴが公募され直した時、
私には一瞬、今採用されている「青の市松模様のデザイン」が、インスピレーションとして頭をよぎりました。

それは、大なり小なり、未来を見据える力・先見の明があったことの表れだろうと考えています。

しかし、「祭典だよ?おまつり。祭なのに青一色とか、ないわ~~~」と思い、それを制作するのはやめました。

そして、「自分のこれまでとこれからのあり方を確かめる」、その願掛けのようなつもりで、ロゴデザインに取り組んでみました。

「このロゴコンペに採用されなかったら、デザイナーとして生きることはやめよう。それが天命だ。」

それくらいの意気込みを、周囲の方々に伝えていたと思います。
そうして、最初に閃いたのが、こちらの動画で紹介しているロゴでした。(←下の動画見ながらジワジワ笑うとこ)

 

そして、今。

「パクリは負け、勉強は負け」という、知らぬ間に築いてた自分らしさの檻と戦い、
少しだけ、人や自分を許せるようになったのは、20代後半からだったように思います。

 

自己とは何か?
人はどこから来て、そしてどこに行くのか?

 

社会の深層や自我の深部、そして宇宙の真理と向き合い、
「パクリ」や「コピー&ペースト」が、自己を形成する上で欠かせない要素だと気づいてきました。

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すなわち「パクリ」や「コピー&ペースト」は「オリジナルの否定や逆」ではない。
「何をどのようにコピーしペーストするかの過程に反映される意思の介在」こそが「オリジナリティ」であって、
「唯一無二であること」がオリジナルなのではない。

なぜならば、「親なくして生まれる子はなし」である故に、唯一無二のものなどこの世に何一つ存在し得ないのだから。

それが「自我」「自己」「オリジナリティ」。

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そうして、「パクリ」「コピー&ペースト」「勉強」を許せるようになった私は、
改めてこの社会の動向の全てを学び直したくなりました。

同時に、自らの最大の才能である「創造性・斬新なアイディア」をより確かなものとして生かすために必要だと感じた
「弁理士」の資格獲得を目指すようにもなりました。

弁理士試験は、まだまだ時間がかかりそうですが、今後も勉強し、合格を目指していくつもりです。

全てを受け入れる「お正月」

私の創造性や斬新なアイディアを全て受け入れるポテンシャルを感じると共に、
全てを発揮して発展させる価値があると感じる「お正月」という分野。

 

なぜそうする価値があるのか?

それは「お正月」を一年間やり通した来年以後にお話しすることになると思いますが、
ここには、私の全てを注ぎ込むべきだと、そう感じるのです。

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